時計じかけのオレンジ

キューブリックは天才だ。天才と狂気は紙一重だというが、この作品でも彼の天才=狂気はいかんなく発揮されている。

例えば、アレックスがウルトラ・バイオレンスを働く前の一瞬の「間」。思わず背筋がぞくぞくする。満面の笑みをたたえ、ウィットの効いた場違いなジョークを交えた、暴力パフォーマンスには、恐怖を越えた、麻薬のような怪しい魅力さえある。

人間の日常に潜む暴力への羨望を暴き出すとでもいおうか、すごく危険な映画ではある。





キューブリックの映像に対する鋭い嗅覚は何にも増して芸術的だ。もうひとつの特徴であるエンターテイメント志向の優れた職人気質と結合することで、映像センスは画面いっぱいに極上のワインのような甘い香りを振りまく。

アレックスには、血も凍るような冷血さと虫けらのような存在の危うさが同居していて、とうてい感情移入できない。けれども映像のもつ迫力とでもいうべき、純粋に映画的な魅力があって、ぼくらは物語の展開に興味をそそられる。

これなども映像センスへの揺るぎない自信とストーリー・テラーとしての豊富な経験と実績が結晶したとでもいうほかない。

さて、ルドヴィコ療法で社会復帰したアレックスだが、すべての行動は自分の意思でなされるべきとの欺瞞に満ちた幻想は、当然のことながら破綻する。自由は個人の意思と不可分で、したがって、自由の責任は個人がとるとされる、その前提に疑問をさしはさむ瞬間。

例えば、脳の一部を破壊することで、人格を失ったひとはもはや自由ではないのか。このとき彼が取った誤った行動の責任は誰がとるのか。こうして国家の立場が責める側から責められる側へと180度転回する。

ラストのシーンで責任をめぐってアレックスと国家は取り引きする。アレックスの心に棲む悪魔に悪をけしかけ、もって世論の高まりを期待する。アレックスのウルトラ・バイオレンスに免罪符が与えられた。保身のためには悪魔までを利用する、見上げた根性とでもいおうか。

思えば、ルドヴィコ療法なるものは、かつて精神病患者に行ったロボトミー手術と同じだ。この作品のラストの取り引きは、精神障害者に対して国家が取っている距離とあまりにも似通っている。この点で、図らずも近代国家批判たりえているが、キューブリックも自らの狂気に随分手を焼いたようだ。


時計じかけのオレンジ  ★★★1/2

製作:1971年イギリス
監督:スタンリー・キューブリック
男優:マルコム・マクダウェル
脚本:スタンリー・キューブリック
撮影:ジョン・オルコット
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by Yasuo_Ohno | 2005-02-22 22:33 | シネマンガ研究会
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