中国って「怖い国」?

こんにちは、インテ郎です。

kiwidreamさんからのトラックバックです。■ 中国人 ■

dosankoさんからもトラックバック。反日デモ拡大、でも冷静に・・・あっ、これ失敗しちゃいました。ごめんなさい。

昨日、ラジオの英会話を聞いて、そのままつけっぱなしにしていると、ラジオの「高校講座・現代文」が始まりました。ずっと聞いていたインテ郎はいろいろ考えました。



内山節(うちやまたかし)著「自由論」からの文章。

かつての日本では、自由は、勝手気まま、自在であることという意味で用いられていた。それが外来語の自由が入ってきてからは、責任のある行動をしようとするときの障害を除去すること、という意味に変わった。こうして人間社会の制度的束縛を取り払うことが、自由の中心的課題になった。

ところが自由には、次のような自己矛盾が生じている。それは、何が自由で、何が不自由なのかを見定めるためには、それをつかみとるための自由な精神がなければならず、その自由な精神がなければ自由は確立できず、自由が確立されていなければ自由な精神は得られない。



しかし、これでは「たまごが先か鶏が先か」の循環論法になってしまう。
ここから抜け出すために、

他者の自由、これまで気づかなかった自由に接する必要性があるような気がする。

そして、著者はマックスウェーバーの著書から、一つの文明だけに慣れ親しんでいる人からは、新しい文化は生まれなかった。異文化との接点で生きた人間たちの中から、新しい文化は生まれた。という内容を引用しています。

まさしく、インターネットの普及により東側ブロックは崩壊し、中国でも、北朝鮮でも、「国の外は随分様子が違うぞ」と人々は感じ始めている。他国民が享受している自由を認識し始めている。

以前、知り合いの韓国人が、「中国は民主国家じゃない」と言い、それに対し中国人の青年が「民主国家じゃない国って世界にありますか?」と聞く。

たしかに、広義の意味では中国も民主国家。選挙によって代表が選ばれるので民主主義国家といえる。でも、韓国の青年が言いたかったのは「自由」の問題だと思う。

厳しく政府が統制している国、中国は情報もコントロールされている。
先週の学生抗議デモは、政府が組織したのではないかという憶測も一部ではある。

それが本当であれば、中国政府は大きなリスクを犯している。ネット時代、携帯メールであれだけの数の学生を動員できる時代。外国で他国の「自由」を見て「自由な精神」を得た若者は逆にその「自由な精神」を瞬く間にネットで広げ、抗議デモは自国政府にも向けられるかもしれない。

天安門事件の時とは時代が違うのだ。徹底した「抗日教育」の「予防接種」がどの程度もちこたえられるのか。
学生だけでなく、日本にはたくさん中国人旅行者がやってくる。彼らは何を感じて帰っていくんだろう。「自由な精神」が「自由な社会」を求めるまでに成熟するのはいつであろうか。

そして、同じ土俵で、日中両国民が「歴史」について話し合える日はいつ来るのだろうか。もともとそんなことは非現実的なのだろうか。

実は、この「自由論」から私が引用した部分より前の部分で、著者は「木の自由」について述べている。
移動できない「木」は自分が必要としているものを呼び寄せる。落ち葉によって微生物や小動物を呼び寄せて、肥料を作ってもらう。
花をつけてはたくさんの虫を呼び寄せ、実を実らせる。実によって鳥や動物を呼び寄せる。

そうやって他者の力を借りながら、木は生きているように感じるのである。
(中略)
そして、もしそうであるとするなら、木が自由に生きるためには、他の自然の生き物たちも自由に生きていられる環境が必要である、ということになるだろう。木は自分の自由のために、他者の自由を必要とするのである。


まるで、ブッシュの主張を後押しするような内容だが、今回の中国での騒動を見ていて、また、拉致問題や韓国との関係悪化を見ていても、この文章はとても説得力があるように思う。
過去に他国を侵略し自由を奪った日本は、自らの首をしめている。
また、自由の精神の希薄な国民同士は、同じ土俵で相手のことをお互いに理解して、共存の道を探ることはできない。

中国はいくら日本がお金をあげても感謝することは無いだろう。それは、まるで卑弥呼の貢物のように大国だからもらって当然と考える。つまりは中華思想から未だに抜け出せていない。
北東アジアの覇権国として中国はもうひとつ常任理事国が自分の縄張りの中にできることは到底我慢ならないだろう。

そもそも中国の凋落はアヘン戦争に始まっている。領土が欧米列強国に分捕られ、長年屈辱を味わってきた。また、朝鮮半島は日本に支配される前は中国の支配を受けていた。日本が支配しなければ中国の国の一部になっていたかもしれない。
しかし、敗戦国であるがために、植民地時代の贖罪をすべて日本が負わされているようにも思える。(東京裁判は決して公正だったとはいえない。)

それでも日本は歴史から目をそむけてはいけない。歴史の共同研究は非常に意義深いし、遅きに失したとも言えるくらいだ。
日本列島が巨大な船であれば、アジアを去ってアメリカ西海岸へ移動することもできるが、日本は「木」と同じで動けない。「怖い国」だからと言って、中国を避けては生きていけない。
どんなに困難であろうとも、相互理解のために尽くさなければならない。

最後に、「自由論」の著者はこう締め括っている。

一本の大木を見上げると、何百年もの間そこを動くことなく生き続けた偉大さを、私たちは感じることがある。そして彼らにとっての自由と共存し得る自由を、見つけ出したいと思う。
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by Yasuo_Ohno | 2005-04-14 13:38 | テーマ4:国際関係
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